2016年10月

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    1 名前:蚯蚓φ ★@\(^o^)/:2016/10/02(日) 21:53:35.36 ID:CAP_USER.net

    http://img.insight.co.kr/static/2016/10/02/700/28R37OJ9972GH7G22DG3.jpg

    ▲Instagram'_20150513'(左)、オンラインコミュニティ(右)
    http://img.insight.co.kr/static/2016/10/02/700/NS36XONE5HHYB5GHFD3I.jpg


    [インサイト]日本大阪で指折りの美味しい店される有名すし店で「嫌韓」の兆しが見えるという情報提供が相次いでいる。

    最近、ある日本の旅行情報を共有するカフェに大阪にある「市場すし」に韓国人と見られる客にだけ、こらしめるために'ワサビ'をいっぱいいれるという文等が上がってきた。彼らがアップした文によれば、該当店店員は韓国人と感づけば店員どうし「チョン」とあざ笑いながらワサビを意図的にたくさん入れる。

    その上、彼らは「ワサビを食べて苦しがる韓国人等を見て'表情を見たか?'と大きくあざ笑う」と付け加えた。あるネチズンは「下手な日本語でワサビを減らしてくれとお願いしたところ、日本人店員らは笑いながら'サービスだ'と言ってワサビをいっぱい入れた」と話した。

    このような事例は該当すし店の難波店と道頓堀店の二カ所で聞かれたことが分かった。韓国人の間で有名な美味しい店なので、韓国人の来店が多く、また、これにより被害事例はかなり多いと見られる。該当カフェで'市場すし'を検索しただけでも被害をうけた旅行者の文等があふれていることが確認された。

    あるネチズンは「市場すしの'嫌韓'は7~8年前からかなり有名だったが、突然問題になった。以前から'ワサビテロ'はずっとあった」と説明した。その他にも梅田にある「魚心寿司」もやはり韓国人が来店した場合、誠意のない食べ物を出して韓国語メニューの価格がより高いという情報提供もあった。

    このように韓国人旅行客を対象に日本の'嫌韓'の動きが捉えられて国内の反日感情もより一層激しくなっている。また、一部では「国内の商人も海外観光客に'ぶったくり料金'を請求していないのか」と私たち、または自らを振り返ってみる必要があるという指摘も続いた。

    ソン・ボミ記者

    ソース:インサイト(韓国語) 日本、大阪すし屋で'韓国人'相手に広がる'ワサビテロ'
    http://www.insight.co.kr/newsRead.php?ArtNo=77253

    関連サイト:市場すし
    http://ichibazushi.com/
    この度は弊社店舗での接客に関する内容で、インターネット各所にてお騒がせ致しましたことをお詫び申し上げます。
    事実関係を確認しましたところ以下の確認が取れましたのでご報告いたします。

    すしに多くのわさびを乗せていた件ですが、こちらはそのような事実がありました。
    海外から来られたお客様からガリやわさびの増量の要望が非常に多いため事前確認なしにサービスとして提供したことが、
    わさびなどが苦手なお客様に対して不愉快な思いをさせてしまう結果となってしまいました。
    今後はこのようなことの無いよう、しっかりと対応させていただく所存です。

    また、従業員による民族差別的な発言に関してはそのような事実は確認できませんでしたが、より多くのお客様に
    満足していただけるよう社員教育を一層徹底してまいります。


    引用元:http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1475412815
    【【嫌韓】 大阪のすし店で韓国人相手に嫌がらせで「ワサビテロ」~ネットで広がり韓国の反日感情刺激】の続きを読む

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    1 名前:ねこ名無し ★@\(^o^)/:2016/10/02(日) 19:09:46.18 ID:CAP_USER.net

    2016年9月29日、韓国・MBCによると、米ロッキード・マーティン社は、韓国が同社のF?35Aを次期戦闘機に選定した対価として、軍事通信衛星を造り、打ち上げまで終えた後に引き渡すと約束したが、この計画が白紙になる可能性があるという。

    韓国政府は2014年9月、ロッキード・マーティン社のF?35Aを7兆4000億ウォン(約6770億円)で40機導入し、その対価として軍事通信衛星1機を受け取ることを決めた。その際、同社は2018年1月に衛星を打ち上げるまで責任を持つと約束した。同衛星が導入されれば、北朝鮮のミサイル挑発の前兆を探知し、韓国軍のミサイル監視所により速く正確な情報を伝達することができるため、迅速な先制攻撃が可能になる。

    しかし、昨年7月以降、交渉は足踏み状態にある。ロッキード・マーティン社が突然、「5500億ウォン(約500億円)の衛星事業費用を全て負担することはできない」とし、韓国政府に費用の一部を負担するよう求めたためだという。衛星の製作期間を考えると、2020年までは打ち上げが事実上不可能となった。さらに、合意書には「ロッキード・マーティン社は約2300億ウォン(約210億円)の保証金を支払えば契約を履行しなくてもよい」という趣旨の文章が明示されているという。

    これについて、韓国与党「セヌリ党」のイ・チョルギュ議員は、「最悪の場合、軍事通信衛星を韓国に持ってこられない可能性もある。断固とした措置を取るべきだ」と指摘した。

    韓国の防衛事業庁はロッキード・マーティン社に加え、米国政府とも協議を進めているという。

    これについて、韓国のネットユーザーは次のようなコメントを寄せた。

    「韓国が国際的なカモであることが証明された」
    「F-35Aの契約に関わった人を全員拘束し、財産を没収しよう」

    「また不正が行われたに違いない。韓国政府は全て知った上で契約を結んだのだろう」
    「米国製にこだわっていたのは、不正を働くためだったのか…」

    「抜かりなく仕事を行ったら、韓国の防衛事業庁らしくない!」
    「日米中に振り回されるのはもうやめてほしい」

    「ロッキード・マーティンにだまされるのは今回が初めてではない。韓国はどうしてこんなにも無能なのか…」
    「十数年前にも同じニュースを見た気がする」

    「世界1位の軍需企業が1つの国を相手に堂々と詐欺を働いてもいいの?すぐに契約を破棄するべき」
    「米国を信じた韓国が悪い。米国に頼らずとも生きていけるよう、核兵器を開発しよう。8兆ウォンあれば100個くらい造れるのでは?」(翻訳・編集/堂本)

    http://www.recordchina.co.jp/a151735.html


    引用元:http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1475402986
    【【韓国】米企業の態度が急変、韓国初の軍事通信衛星計画が水の泡に?=韓国ネット「韓国は国際的なカモ」「米国を信じた韓国が悪い」】の続きを読む

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    1 名前:動物園φ ★@\(^o^)/:2016/10/02(日) 17:31:21.21 ID:CAP_USER.net

    パク大統領は「私が地震被害現場を訪問した当時についても様々な論難が起きていることに
    悲痛な心であったが、大統領である私は心より国民を心配して国民のために働きながら残った
    任期を終える」と明らかにした。

    これは、最近ある日刊紙がパク大統領の20日の慶州震害現場の訪問写真を載せながら、
    まるでパク大統領が靴に土をつけないために遠くから手を伸ばして住民と握手するかのような
    説明を付けて報道したことを念頭に置いたものと見られる。

    チョン・ヨングク代弁人も前日これに対して「パク大統領が握手をしようと近付くから
    住民たちが『復旧中の土だから踏まないでください』と土を間に置いて握手したもの」と言い
    「深刻な事実歪曲だ」という立場を明らかにした。

    全文
    http://news.nate.com/view/20160922n14422?mid=n1006

    画像
    https://livedoor.blogimg.jp/misopan_news-001/imgs/b/2/b24f0f71-s.jpg

    https://livedoor.blogimg.jp/toychan-net/imgs/c/c/cc09762a.jpg



    引用元:http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1475397081
    【【韓国】パク大統領「大統領である私は心より国民を心配して国民のために働きながら残った任期を終える」】の続きを読む

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    1 名前:ねこ名無し ★@\(^o^)/:2016/10/02(日) 13:07:53.59 ID:CAP_USER.net

    http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-10-02/2016100214_01_1.jpg

    (写真)「慰安婦」問題の解決を求める集会で講演する川上弁護士=9月30日、参院議員会館

     「慰安婦」問題の真の解決をと9月30日、国会内集会「『日韓合意』後も賠償は可能―被害者の賠償請求権は今も消滅していない―」が開かれました。主催は「慰安婦」問題解決オール連帯ネットワークで、約80人が参加しました。

     「慰安婦」問題について、日本政府は2015年12月の「日韓合意」に基づき韓国の財団への10億円の拠出などで「最終的に不可逆的に解決」させるとする立場をとっています。

     講演した川上詩朗弁護士は原点は被害者の人権の問題だと指摘。「政治・外交問題なら国家と国家の間で解決するが、個人の人権問題なら被害者自身が納得する形での謝罪と賠償があって初めて解決だ」と訴えました。国家の賠償請求権の放棄が国民の請求権を放棄したことにはならないと述べました。

     大森典子弁護士は、日本軍の関与のもとで多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけたことに「お詫(わ)び」表明した、河野談話を安倍内閣も継承していることを強調。歴史教育や謝罪、賠償など「河野談話を足がかりにより高い解決をめざす」ことを提起しました。

     韓国の状況について梁澄子氏が報告。韓国の9月2日の世論調査では、日韓合意について「再交渉すべきだ」が63%と1月の調査時より上がっていることを紹介し、10億円の拠出で「日韓合意の責務を果たした」とする日本政府に反発があることを指摘しました。

     日本共産党の紙智子参院議員が参加し、「解決のためにともに頑張りたい」とあいさつしました。

    http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-10-02/2016100214_01_1.html


    引用元:http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1475381273
    【【赤旗】「慰安婦」問題で集会 「被害者の賠償請求権は今も消滅していない」】の続きを読む

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    1 名前:動物園φ ★@\(^o^)/:2016/10/02(日) 09:05:24.10 ID:CAP_USER.net

    有田芳生 @aritayoshifu 8分前

    在日韓国・朝鮮の学生に奨学金を出している「朝鮮奨学会」で
    「ヘイトスピーチ解消法の成立と展開」について講演します。
    福沢諭吉にたどる日本の差別意識の根絶は歴史的な課題です。
    在日の弁護士で構成されるLAZAK編の『ヘイトスピーチはどこまで規制されるか』は現実的なテーマで刺激的でした。

    https://twitter.com/aritayoshifu/status/782367618015440897


    引用元:http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1475366724
    【【話題】有田芳生「在日学生に奨学金を出している朝鮮奨学会で講演します。福沢諭吉にたどる日本の差別意識の根絶は歴史的課題です」】の続きを読む

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    1 名前:動物園φ ★@\(^o^)/:2016/10/02(日) 09:22:15.66 ID:CAP_USER.net

    (みちのものがたり)高麗王若光の道 埼玉県 渡来人が故郷を見た土地
    2016年10月1日03時30分

    高麗川にかかる橋の上を母と子が犬の散歩で渡る。夏は橋の下で水遊びをする子どもたちの声でにぎわう=いずれも埼玉県日高市

     炎天下でも、歩きたくなる道はある。この夏、埼玉県日高市の高麗(こま)神社へ通った。

     山あいの何げない小道が気持ちいい。

     渡来文化の日本への影響を追究した在日朝鮮人作家の金達寿(キムダルス)(1919~97)もまた、この地を何度も訪れ、西武線の高麗駅から高麗神社まで約3キロの道のりを歩いた。「都塵(とじん)のなかではちょっと想像もできないような、いい道」と書き、高麗川のほとりに座ると、帰れない故郷を思う気持ちが慰められるとも語った。「高句麗人が居を定めたのも、この土地に故郷を見たからだと思う」

     高句麗とは、中国東北部から朝鮮半島北部にかけて668年まで約700年間存在した古代国家。日本では高麗(こま)と呼ばれ、多くの高句麗人が日本に渡って来たといわれる。

     「続日本紀(しょくにほんぎ)」には716年、上総(かずさ)など東国7カ国に住む高麗人1799人を武蔵国に移住させ、高麗郡を建郡したとある。現在の日高、飯能両市にまたがる一帯だ。

     1970年代後半、発掘調査に携わり、高麗郡の存在を考古学的に実証した高麗浪漫学会会長の高橋一夫さん(70)は言う。

     「風景が似ていることは、渡来人にとって、治水など自分たちが持つ高度な技術を発揮できる場所として、重要な要素だったんですよ」

     高麗人は無人だった土地を開拓し、三つも寺院を建てた。建郡は大規模な国家プロジェクトだったとみられる。

     「地方行政機構のモデルを示そうとした。対外的には、滅びた王族が国内にいることをアピールし、天皇を中心とする“日本型の小中華思想”を示したのではないか」

         *

     高句麗といえば、韓国ドラマで知った人も多いだろう。始祖の生涯を描いた「朱蒙(チュモン)」、中興の祖・広開土(こうかいど)王をペ・ヨンジュンが演じた「太王四神記(たいおうしじんき)」。日本で放映された当時は、高麗神社に「ヨン様」ファンが大勢訪れた。韓流は朝鮮古代史を一気にお茶の間に持ち込んだ。

    http://digital.asahi.com/articles/DA3S12583027.html?rm=150

    2 名前:動物園φ ★@\(^o^)/:2016/10/02(日) 09:22:36.13 ID:CAP_USER.net

    (中略)

     神社でも、高麗人の装束展や韓国の伝統音楽の演奏会など神社にしては異色の行事が続く。文康宮司は言う。

     「特別なことをしている意識はない。渡来の歴史を知ることは、日本人とはどういうものかを問いかけること」

     日高市内には、あちこちにチャンスンが立っている。大きな目をむく「天下大将軍」と「地下女将軍」。朝鮮半島の村の入り口で見かける魔よけである。

     山あいを歩いているのに、海を渡ってきた風を感じる。暑さが気にならなかったのは、きっとそのせいだ。

     (文・林るみ 写真・杉本康弘)

    ■今回の道

     高句麗国王の使者として来日した若光は都で官人として仕えたのち、武蔵国へ移ったといわれているが、そのルートは明らかでない。

     神奈川県大磯町の高麗山ふもとの高来神社(明治期に高麗神社から改称)一帯では、一族と海を渡って来た若光が相模国大磯に上陸、この地に大陸文化を広めたと言い伝えられている。

    (以下略)


    引用元:http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1475367735
    【【朝日新聞】韓流は朝鮮古代史を一気に日本のお茶の間に持ち込んだ】の続きを読む

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    1 名前:ねこ名無し ★@\(^o^)/:2016/10/02(日) 07:40:26.15 ID:CAP_USER.net

     「地方自治体を『地方政府』と言う韓国メディアの表現はおかしい」(本紙9月11日付「読者の意見」)という指摘に反対する。中央政府の呼び方は国ごとに異なる。米国は「連邦政府」、英国は「国家政府」と呼ぶ。また米国には州ごとに「州政府」があり、州の中には県、市、郡の政府もあるが、これらは「地方政府」と呼ばれている。英国もスコットランドやウェールズを除く地方の政府を「地方政府」と呼んでいる。

     「『地方政府』という表現が何か『中央政府』と対立する対等な機関という印象を与える」との指摘もあったが、これも地方の公務員組織を「地方政府」と呼ぶべきでない理由にはならない。「中央政府」や「地方政府」が対立、あるいは対等であるべき理由などないからだ。

     (日本の植民地支配からの)解放後、さまざまな分野で専門的な概念を示す韓国語を作り上げる能力がなかった時代、日本の教育を受けた公務員たちは日本語をそのまま受け入れて使った。「地方自治体」という言葉もその中の一つだ。今こそ「地方自治体」という言葉ではなく、国際的に使用される「地方政府」に修正すべき時だ。

    イ・デギュさん(釜山大学名誉教授)

    http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2016/09/30/2016093001711.html


    引用元:http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1475361626
    【【韓国】「地方自治体」という言葉は日帝残滓 国際的に使用される「地方政府」に修正すべき】の続きを読む

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    1 名前:ねこ名無し ★@\(^o^)/:2016/10/01(土) 22:53:08.06 ID:CAP_USER.net

     この言いがかりに黙っているわけにはいかない。元朝日新聞記者、植村隆さん(58)は覚悟を決めて反撃する。今年2月に出版した『真実~私は「捏造記者」ではない』(岩波書店)は増刷と好評。各地で講演を引き受け、ジャーナリズム全体にかけられたバッシングに正面から向き合う。9月7日、福岡市で開かれた集いには110人の参加者があり、質問にも丁寧に応じる姿が印象的だった。本人と話してみて思う。「捏造」を唱えるほうこそ捏造ではないか。「慰安婦」問題と取り組む九州キリスト者の会主催。

    ●『週刊文春』の記事が火付け

     植村さんの環境が一変したのは2年前、『週刊文春』2月6日号に掲載された「“慰安婦捏造”朝日新聞記者がお嬢様女子大教授に」という記事だった。「見るたびに腹が立つんですが、大事な資料です」と会場に提示する。1991年8月、当時大阪本社社会部の在日・人権担当時代に書いた元「慰安婦」金学順(キム・ハクスン)さんの証言に対し、軍による関与はなかったと考える側を勢いづかせるバッシングである。前年6月の参院予算委で「(慰安婦は)民間業者が連れ歩いた」と政府が答弁し、韓国民主化の中で声を上げる女性たちが出てきた。植村さんは韓国留学の経験もあり、ハングルは得意だ。元「慰安婦」の紹介をされ2週間取材したが、家族にもひた隠しにしてきたつらい体験を日本の若者にそう簡単に打ち明けられるわけがない。「戦後も語れなかった女性たちの胸の痛さに当時は思い至れなかった」と植村さんは自省を込めて振り返る。

     そして翌年、金学順さんが告白する段階で事態は動き出す。植村さんは、韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)が聞き取り調査した録音テープの内容を紹介する形で8月11日、「思い出すと今も涙」という見出しで記事化した。まだこの時は68歳の匿名である。その後、金学順さんに聞き取り調査をする弁護団に同席して12月25日、「かえらぬ青春 恨の半生」との記事を実名と本人の写真付きで書く。「だまされて慰安婦にされた」という表現はあっても「強制連行」という字句はない。

     植村さんをたたく側は、この記事をもって「反日」の極みと考える。しかし、金学順さんの訴えが世界に広く伝わったのは朝日の記事ではなかった。8月11日を節目と見て帰国した植村さんには予想もしなかったことが3日後に起こる。金学順さんが記者会見を開いたのだ。金学順さんはその後、被害者として損害賠償請求を起こした。この勇気ある発言を受けてアジア各地で名乗り出る人が次々と現れた。金東元(キム・ドンウォン)監督のドキュメンタリー映画『終わらない戦争』(2008年)に映し出される金学順さんの会見時の様子を解説しながら植村さんは「二つの記事だけで有名になって、そうして歴史は作られる」とため息をついた。

    ●西岡力氏の執拗な攻撃やまず

     「それでも執拗に攻撃する人がいる。それが西岡力さんという人です」と続け、どのような内容かを示していく。一番の批判は、金学順さんがキーセン学校に3年間行ったことを書かなかった点。訴状には記されていても芸妓・芸者を目指すことが「慰安婦」になった理由ではないから植村さんは省いた。他のメディアも同様に書かなかったのに、なぜか植村さんだけが指弾される。東京基督教大学教授の西岡氏は1992年から雑誌などで名指し批判をしており、その論理はこうなる。

    (1)金学順さんは40円でキーセンに売られ、強制的に連れて行かれた人ではない。

    (2)記者会見の3日前のスクープ記事は、金学順さんも加わる訴訟の原告組織「太平洋戦争犠牲者遺族会」のリーダー的存在だった常任理事の娘の夫だから取れた。

    (3)記者が自分の義母の裁判を有利にするために意図的に「キーセン」を報じなかった。

     「慰安婦」はいても「慰安婦問題」にしたのは植村さんも含め朝日の一連の記事であると言いたいようだ。いわゆる「慰安婦狩り」を告白した吉田清治氏(故人)の証言記事を取り消しても朝日の罪は消えないと考え、「国賊朝日新聞は廃刊すべきだ」とジャーナリストの櫻井よしこ氏や産経新聞編集委員の阿比留瑠比氏らとともに、その主張はエスカレートしている。

    http://www.labornetjp.org/news/2016/1001hayasida

    >>2以降に続く)

    2 名前:ねこ名無し ★@\(^o^)/:2016/10/01(土) 22:53:35.24 ID:CAP_USER.net

    >>1の続き)

     西岡氏の憶測は的を射ているか。まず、キーセンに対する考え方が異なる。「40円」というのも、母親がキーセンを養成する家へ養女に出した際に養父が母親に支払った金額であり、意味が違う。また、植村さんも義母との関係を理解しているから読者に予断をもたれないよう留意してきた。8月11日の記事はソウル支局長からもたらされた情報という。そもそも前記の二つの記事に記者の主観はない。挺対協や弁護団の聞き取り調査の内容を起こした客観報道であり、お手盛りのスクープだと邪推するなら肝心の8月14日の記者会見で北海道新聞に抜かれた植村さんの失敗を何と説明するのか。吉田清治氏に関する記事を植村さんも書いているものと思い込んでいた私以上に、西岡氏の批判には勘違いが多々あるようだ。

     『週刊文春』の「“慰安婦捏造”」についても、植村さんはその取材の在り方に疑問を隠さない。函館支局に押しかけてきて「取材するまで帰らない」と居直られ、北海道支社とも相談のうえ広報に任せてトラブル防止のため退所したのだが、出来上がった記事は「タクシーに乗って逃げた」と書きなぐられる。そして「挺身隊の名で戦場に連行され」との記述を西岡氏に解説させて「挺身隊とは軍需工場などに勤労動員する組織で慰安婦とは関係がありません」と“捏造”を示唆する。だが、当時は「挺身隊」と「慰安婦」は混在して理解されており、他紙も同じように書いている。これは、人をおとしめる常套手段であろう。『週刊文春』の記事は「朝日は不都合な真実にいつまで頬被りをするつもりなのか。日本が失った国益はあまりにも大きい」と締めくくる。「慰安婦」の置かれてきた耐え難い苦痛より、国家の利益が第一らしい。

    ●メディア全体にタブー化狙い

     韓国世論の激高は、1993年の河野談話を否定しようとする日本国内の動きで加速された。河野談話とは当時の河野洋平官房長官が出したもので政府見解に当たる。軍の要請によって慰安所が設立され、募集、移送、管理も旧日本軍が直接あるいは間接的に関与したと認定。「慰安婦」も本人の意思に反して集められた事例も数多くあり、名誉と尊厳を深く傷つけたことを率直におわび、反省している。そして、この事実を教訓として歴史研究、歴史教育を行い、同じ過ちを繰り返さないと表明する。吉田清治氏の証言とは無関係に調査結果をまとめた真摯な内容だ。翌年の村山談話を経て1995年、政府主導で民間のアジア女性基金へとつながる。河野談話をバッシングする側は、16人の元「慰安婦」証言のみで十分な裏付けがないとし、韓国の修正要求を大幅に取り入れた「合作」のために、その後の拡大解釈と日本たたきを韓国に許していると主張する。天と地ほどの開きがある評価といえよう。戦後、曲がりなりにも平和国家として歩んできた日本が過去の過ちを素直に認めることをプラスとは考えないようだ。

     植村さんは、1997年の「新しい教科書をつくる会」発足、2001年の「女性国際戦犯法廷」についてのNHK番組改変など歴史を書き換えようとする不穏な動きを要約しながら、ことに安倍政権復活後の増長ぶりを指摘した。「慰安婦」と接した元日本兵の戦場体験を聞くことが難しくなった戦後70年。政治家や学者も戦争を実感できない世代ばかりである。戦後生まれが人口の8割となっては、よくよく勉強しないと真実は見えてこない。簡単に歴史修正主義に取り込まれてしまう。

    (続く)

    4 名前:ねこ名無し ★@\(^o^)/:2016/10/01(土) 22:53:56.53 ID:CAP_USER.net

    (続き)

     あらぬバッシングに「なぜ自分が」と戸惑い、憂鬱な記事を書かれた悔しさから「冤罪を晴らしたい」思いに植村さんは当初とらわれた。しかし、この一連の策謀は、自分をスケープゴートにして朝日を萎縮させ、ひいてはメディア全体に慰安婦問題をタブー化させて国民意識を変えようという狙いを感じ取ってくる。だから、どのような手を使ってでも攻撃してくるし、過去を正視せず「日本人は全く悪くない」と思いたい人の心の隙に入り込む言辞を弄する。今や植民地政策さえ「いいことをした」と開き直られる時代である。安倍晋三首相は昨年、「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そして先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と慰安婦問題にからめて談話を出した。一見、正しい。しかし、これは河野談話を誠実に履行して被害国の人たちが感懐を込めて言うセリフであろう。「最終的かつ不可逆的な解決」を確認した日韓合意を受けて今夏、韓国の「和解・癒やし財団」に日本政府は10億円を送金した。植村さんは河野談話の重要な柱である「歴史研究、歴史教育」が全くなされていない現実では空中分解する可能性が高いと懸念する。ソウルの日本大使館前に被害女性の象徴として設置された少女像の移転や撤去は、韓国の学生たちが日夜阻止する状況だ。植村さんは女学生たちの写真を紹介しながら、あまりにも無関心な日本の若者たちとの対比に愕然とする。

     「慰安婦」の実態が人数も含め韓国内では過剰に報道されている面はあるだろう。敗戦時、旧日本軍は発覚しては困る資料を徹底的に焼却するなど隠蔽に走った。罪の意識がある。ところが今は「関与の証拠がない」とシラを切る材料に使われている。女性たちの中には長い年月の間に記憶が混乱して些末な部分で矛盾するところもあり、そこを全否定の材料にされる。関東軍731部隊による人体実験を世に知らしめた森村誠一氏の『悪魔の飽食』の中で写真を1枚誤っただけで強烈な反応を引き起こし、光文社版が回収・絶版となった事例を思い出す。だが、被害事実の根幹部分に揺らぎがないことを重視すべきではないか。それらも含めて丁寧に記録に残し、共に考える歴史教育こそ植村さんは大事だと考えているようだ。今の日本政府の対応では、10億円が韓国に後の責任を押しつける一方的な“手切れ金”になりかねない。

    ●娘の名前と顔をさらす便乗犯

     植村さんは一連のバッシングで神戸松蔭女子学院大学への転職を諦めた。北星学園大学(札幌市)の非常勤講師こそ大学の意志でその後も2年間継続できたが、姉妹校である韓国のカトリック大学校へ客員教授という形で今年3月から移っている。北星学園に感謝する植村さんにとっては、教える留学生は変わらず、場所がソウルに、言葉がハングルに変わっただけとほほ笑む。とはいっても、こうした言論弾圧は許せないし、何より植村さんの娘の名前と顔をツイッター上にさらして中傷する便乗犯まで現れたことが看過できなかった。娘は慰安婦問題とは全く関係がない。有志の弁護団の総力を挙げた特定作業によって発信元を突き止め、娘が原告となり、東京地裁に提訴した。植村さんは「娘のタフさには感謝している。娘の心が折れていたら、私の心も折れていたかもしれない」と、父としてギリギリの判断を迫られる場面だったことを明かした。裁判長は和解を進めたが、娘は判決を求めた。二度とこうしたことが起きないよう判例をつくるためだった。100万円の精神的損害と調査費・弁護士費用70万円の計170万円を損害賠償請求していたが、今年8月の判決では全額認められた。それだけでなく、娘の精神的被害は200万円相当という判断も示していた。「裁判長も怒っていたんですね」と述懐する。

     植村さんは自分にかけられた攻撃に対し、三つの観点から訴訟の意図を説明した。一つは、司法の場で「捏造記者ではない」と証明すること。そして、つらい体験をした元「慰安婦」の傷ついた尊厳の回復。最後に、言論と報道の自由や大学の自治という戦後民主主義を守るためである。

    (続く)

    5 名前:ねこ名無し ★@\(^o^)/:2016/10/01(土) 22:54:19.38 ID:CAP_USER.net

    (続き)

    ●「抱腹絶倒」産経と読売の姿勢

     メディアの取材に応じる中で、バッシングする産経と読売にも向き合った。「これは本当に皆さんにお話ししたい。抱腹絶倒ですよ。いかに産経や読売がインチキな報道を朝日バッシングでやったか」と鼻息を荒くした。産経とは1対3、読売とは1対5。それぞれカメラマンが1人含まれるとはいえ、記者の人数に気おされる。「非常に恐ろしかったが負けませんでした。なぜなら私には事実という武器があった」と?末を語る。産経には阿比留記者も入っている。ところが、話していくうちに、もう1人の記者も含めて事実を知らないことに驚いた。産経こそが1991年12月7日の金学順さんの記者会見の記事で「日本軍に強制的に連行され」と書いているのだ。コピーを見せることで、自社の記事を確認せず植村さんを攻撃していることが判明した。さらに、2人は金学順さんをはじめ被害を訴える女性に一人として会ったことがないことも分かった。当事者の生の声を知らずして書く姿勢が、記者として植村さんには不思議でならなかったが、産経はまだいい。インタビュー記事を植村さんの主張も含め、不十分ながらも読者に届けている。インターネットの「産経ニュース」には全文を載せたので、おかげで勝敗は明らかになった。とはいえ、植村さんの記事の信憑性が揺らいでいると散々批判するため6項目の質問状を社に送ったところ、返信は記事削除の確認1件を除き「個別の記事に関することはお答えできません」「産経新聞社としてお答えする立場にありません」のオンパレード。植村さんは「ほとんど何も答えていない。こんなこと、もし朝日がやったら、今ごろツブれてますね」とメディアでは自殺行為のはずの不誠実さを突く。

     一方、「読売には記事が1行も載りませんでした」とあきれる。インタビュー時に「キーセンとは?」と逆質問して記者たちが答えられなかったからだろうか。あるいは、植村批判の別のページに言い訳のごとく自社もキーセン学校について書かなかったことを記している点を指摘したからだろうか。それとも、1991年の提訴時の記事で読売こそ「強制連行」と書いていることを示したからだろうか。いずれにせよ、掲載しなかった理由は、社のニュース価値に応じて判断した編集方針であろう。新聞社として極めて深刻な劣化を示した2社の対応は「抱腹絶倒」という笑いではすまない気がしてならない。

     「慰安婦問題を否定する勢力は、いったん敵と思ったら、どんなに説明しても、自分たちに矛盾があっても関係なく徹底的にやる」と植村さんは分かった。彼らに誤導され義憤に駆られる人たちは、『週刊文春』を読み、続報の「慰安婦火付け役 朝日新聞記者はお嬢様女子大クビで北の大地へ」という扇情的な広告の見出しを眺める。朝日の内部調査や第三者委員会の検証で植村さんの「捏造」を否定した結論の記事などは読まない。2015年1月号の月刊『文藝春秋』に寄せた植村さんの手記も読まない。北星学園大学へ「売国奴」「日本から出ていけ」といった脅迫が増していく。『マンガ大嫌韓流』にまで植村さんは似顔絵で登場し、吉田清治氏とダブルで「主犯」に挙げられる。

    ●2年以上の試練も出会いの恵み

     西岡氏と文藝春秋を相手に、また櫻井よしこ氏と新潮社など3社を相手に、それぞれ1650万円の損害賠償と謝罪広告を求めた裁判の行方に注目が集まる。「捏造と言われたら記者生命は終わりです」と植村さんは性根を据えた。被告の西岡氏側が、「捏造」と書いたことについて「事実である」と主張せずに「意見ないし論評である」と答弁書に記す段階で勝敗は決しているはずだが、裁判とは関係なく彼らの攻撃はやまないだろう。

    (続く)

    6 名前:ねこ名無し ★@\(^o^)/:2016/10/01(土) 22:54:36.10 ID:CAP_USER.net

    (続き)

     そんな西岡氏に敬称をつけて呼ぶ植村さんに対し、会場から「なぜ」と問う意見が出た。植村さんは10秒近い沈黙の後、その真意を明かさなかった。内心は怒りに満ちているだろう。貴著の中で、批判し続ける西岡氏の姿を「その憎悪の深さに、慄然とする」と記すほどだ。しかし、呼び捨てにしたところで事態が改善するわけではない。あらぬ所で「植村は呼び捨てにする」とも言われかねない心配もある。しかし、それより礼儀を守り、正々堂々と闘う言論人としての矜持を示したように私には感じられた。不本意ながら訴訟は起こしたにしても……。「戦場でどうだったかが問題。慰安婦になった経緯ではなく、その被害にこそ目を向けてほしい」と植村さんが強調したのを思い返す。強制性の有無が本質ではない、との考えだ。西岡氏らとの闘いを個人攻撃に矮小化しては全体を見誤る。そういうことかもしれない。

     強制連行などなく、民間業者による売春だから慰安婦問題で日本は謝罪する必要はない、という論理は世界に通用しないと植村さんはクギを刺す。しかし、反証に耳を傾けないタコ壺の人たちやインターネットの世界では通ってしまい、それが慰安婦問題を知らない若い世代に広がっていることを危惧する。「捏造」とは、単語をつまみ食いして自己の願望に事実をすり替えていく犯罪である。「捏造」したのはどちらだったか、やがて歴史が明らかにするだろう。1997年に金学順さんが亡くなった時、植村さんは簡単な訃報記事しか出稿しなかった。「心が入っていなかった」と今も悔やむ。ライフワークとして、若い人たちに伝える慰安婦問題の本をこれから書きたいと考えている。

     最後に、しみじみとこう語った。「『週刊文春』の記事が出てから2年以上、厳しく苦しかった。しかし、この試練は私にとっても恵みを与えてくれた。各地の出会いで『植村だけの問題ではない』と励まされた。私もこの出会いを大切に、絶対に屈せず勝っていきたい。皆さん、力をお貸しください」。真実の言葉が、そこにある。

    林田英明

    (おわり)


    引用元:http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1475329988
    【【レイバーネット】「慰安婦捏造」の汚名に事実で反撃~元朝日新聞記者・植村隆さん】の続きを読む

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    1 名前:ねこ名無し ★@\(^o^)/:2016/10/01(土) 20:05:23.95 ID:CAP_USER.net

    http://www.nishinippon.co.jp/import/world/20161001/201610010002_000.jpg

    地震でずれ落ちた塔の欄干を取材する韓国メディアと寺の関係者=9月20日、慶州市

     韓国国内で地震への不安が広がっている。9月12日に南東部の慶州付近で相次いで発生したマグニチュード5・1と5・8の地震の余震は、同29日までに446回を記録。「朝鮮半島は環太平洋地震帯から離れた地震安全地帯」との認識が一変した。地震を引き起こす恐れがある活断層が半島に450カ所以上あるとの指摘もあり、政府は対策に追われている。

     「不安で夜も眠れない。頭痛やめまいもします」

     慶州で初めて地震を経験した観光ボランティアの李圭子(イキュジャ)さん(73)は、やまない余震におびえている。防災教育を受けたり、防災訓練に参加したりした経験がなく、避難方法もインターネットで調べたという。

     李さんのアパートに被害はなかったが、慶州が誇る新羅時代の国宝、天文台「慶州瞻星台(チョムソンデ)」や仏国寺の「多宝塔」が一部破損するなど釜山を含む一帯で100件以上の文化財被害が確認された。余震の影響もあり、小学校の修学旅行のキャンセルが続出。李さんは「観光客がめっきり減ってしまった」と元気がない。

     ◇研究者少なく

     韓国の国民安全庁は慶州の地震から10日後の22日、朝鮮半島に活断層が450カ所以上あり、確認済みが25カ所にとどまっているとの衝撃的な事実を明らかにした。政府は2017年から活断層の全面調査に乗り出す方針だが、後手に回っている印象はぬぐえない。

     チャンスはあった。慶州に近い浦項周辺で1960年代初めと81年に中規模の地震が発生。80年代半ばに、研究者の間で活断層の調査を求める声が上がったが、「その後大きな地震が起きず、議論が長続きしなかった」(韓国メディア)。

     95年の日本の阪神大震災、2011年の東日本大震災直後も地震対策の機運が高まった。しかし、聯合ニュースの取材に対し、地質資源研究院地震研究センターの池憲哲(チホンチョル)・前センター長は「地震の研究者が少なく、計画は立てるが、実行段階でうやむやになってきた」と指摘する。

     ◇耐震比率26%

     政府は活断層の調査に加え、地震警報、原子力発電所の耐震性、教育・訓練まで総合的に検証する方針。気象庁も11月、地震情報を2分以内に市民の携帯電話に直接送るシステムを導入する。地震の規模を示すマグニチュードとは別に、揺れの度合いを示す「震度」についても来年以降、導入を検討する。

     ソウル市も9月23日、地震対策の見直しを公表。88年に義務化された建物の耐震設計に沿って公共施設や学校などの対応を急ぐ。市によると、学校施設や民間施設は、いずれも耐震策を終えた比率が26%にとどまっている。災害情報や避難場所を案内するスマートフォン向けのアプリも来年上半期までに開発する。

     「地震安全神話」があった韓国は、そもそも明確な活断層の判断基準さえないという。池氏は「活断層の調査には数十年かかる。それを支える人材育成が急務だ」と訴える。韓国では、地震研究の先進国である日本の助言を仰ぐべきだ、との声も高まっている。 (ソウル曽山茂志、釜山・鶴加寿子)

    http://www.nishinippon.co.jp/nnp/world/article/278741


    引用元:http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1475319923
    【【韓国】地震におびえる韓国 余震446回、安全神話崩れ 活断層450ヵ所、調査は後手 日本の助言を仰ぐべきだ、との声が高まる】の続きを読む

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    1 名前:ねこ名無し ★@\(^o^)/:2016/10/01(土) 18:54:11.21 ID:CAP_USER.net

     木浦(モッポ)は雨が似合う…。そう感じるのは、名曲「木浦の涙」のせいだろうか。リリースから80有余年。日本統治時代に生まれた歌が今なお市民の心をとらえて放さない。朝鮮半島南西端の木浦は、孤児たちから「オモニ(母)」と愛された日本人女性がいたことでも知られている。そんな木浦に突如出現した慰安婦像-。日本をめぐって揺れる港町を訪ねた。(全羅南道木浦 藤本欣也)

     人口約24万人という木浦市の街並みと海を見下ろす儒達(ユダル)山。標高228メートルのこの岩山が「木浦の涙」の舞台の1つだ。

     登山道の入り口で仁王立ちしていたのは、16世紀末の文禄・慶長の役で豊臣秀吉側の水軍を苦しめた朝鮮の名将、李舜臣(イ・スンシン)の像である。当時、岩山の一部を偽装して、兵糧が山のごとく積み上げられているように見せかけ、海上から押し寄せる秀吉軍の攻撃を防いだという伝説が残っている。

     小雨が降りしきる中、あずまやを目指して登っていくと、演歌調の音楽が途切れ途切れに聞こえてきた。「木浦の涙」だった。

     新妻が埠頭(ふとう)に立ち、川面を見つめ、儒達山からの風に吹かれながら、愛しの人をしのんで涙を流す-というのが韓国語の歌詞の内容だ。

     1935(昭和10)年に発売されるや朝鮮で大ヒットし、木浦の名前を一躍有名にした。歌ったのが、16(大正5)年に木浦の貧しい家に生まれた朝鮮人歌手で、当時19歳の李蘭影=イ・ナニョン(本名・李玉禮=イ・オクレ)。彼女もまたこの歌で人気歌手の仲間入りを果たした。

     山道を登っていくと、音楽が流れているところに、「木浦の涙」の歌碑があった。

     作詞したのは木浦出身の無名の詩人で、朝鮮日報が「郷土の歌」を公募して寄せられた約3000点の中から選ばれた。その歌詞に、後に「韓国の古賀政男」と呼ばれる作曲家の孫牧人(ソン・モギン)氏が曲を付けた。

     歌碑には、歌詞の変遷に関する説明もあった。それによると、レコード発売時にはすでに、もともとの歌詞が一部変えられていたという。35年は日本統治時代。特に2番の「~三百年の恨み抱いた~」のくだりが当局から問題視された。三百年というのは文禄・慶長の役を暗示しているとされたようで、結局、韓国語の発音はほぼ同じだが、「~サムベク淵の願安の風は~」と意味不明の歌詞に変わったという。

     李蘭影生誕百周年に当たる今年、さまざまな記念イベントを主催する「木浦の涙・記念事業会」では、日本統治時代の「厳しい監視と弾圧の中で歌われてきた民族の歌」だとし、民衆は「国を失った悲しみをこの歌で癒やした」という見方を示している。

        □ □

     「木浦の涙」の大ヒットから2年後、作曲家兼歌手の金海松(キム・ヘソン)氏と結婚した李蘭影は、1942(昭和17)年に名曲「木浦は港だ」を発売。戦後、哀調を帯びた歌声はフランスのシャンソン歌手、ピアフにもたとえられ、李蘭影は「エレジーの女王」と称された。

     「80年以上歌い継がれている歌謡曲はそれほど多くない。『木浦の涙』は恋人の別離を歌った悲しい歌なのに、悲しみを癒やす不思議な力をもっている」

     こう話すのは、木浦に住む画家の鄭泰官(チョン・テグァン)氏(57)だ。「木浦の涙・記念事業会」の執行委員長を務めている。

     鄭氏によると、「木浦の涙」は、木浦北方の光州(クァンジュ)を本拠地としていた韓国プロ野球球団、ヘテタイガース(現・起亜タイガース)の応援歌にもなった。80(昭和55)年に韓国の民主化運動の過程で発生し、多数の死傷者を出した光州事件の現場でも市民や学生たちが歌っていたという。

     しかし-。

     「木浦で記念歌謡祭を企画した際、『親日派(チニルパ)なのにそんな必要があるのか』という批判が市民から出たのです」と鄭氏は明かす。

     親日派とは、日本統治時代に日本に協力した人などを指し、売国奴と同じ意味合いで使われることが多い。李蘭影は戦前、日本人の芸名で日本語のレコードも発売していた。

    http://www.sankei.com/world/news/161001/wor1610010003-n1.html

    >>2以降に続く)

    2 名前:ねこ名無し ★@\(^o^)/:2016/10/01(土) 18:54:42.57 ID:CAP_USER.net

    >>1の続き)

     「木浦の涙」の国民的歌手でさえ、しかも、故郷の木浦において「親日派」と批判されているとは意外だった。

        □ □

     ちょうど、李蘭影が日本語のレコードを出して活躍していた1938(昭和13)年10月、儒達山のふもとで、韓国人男性と日本人女性の結婚式が行われた。

     夫は当時29歳の尹致浩(ユン・チホ)氏、妻が25歳の田内千鶴子さんだった。

     千鶴子さんは高知県出身で、父親の仕事で木浦に移住し音楽の教師をしていた。その際、孤児施設「共生園」を運営していたキリスト教の伝道師、致浩氏と出会い、結ばれた。

     結婚の2年後に長女(尹清美=ユン・チョンミ=さん)、またその2年後に長男(尹基=ユン・ギ=氏)が生まれ、子供たちをあやしながら、約70人の孤児たちの世話に明け暮れる毎日だった。

     そして迎えた日本の敗戦。日本人女性を妻にもった夫は、住民たちから「親日派」と攻撃された。千鶴子さんの身にも危険が迫った。

     長男の基氏(73)はこう述懐する。

     「母を助けたのは共生園の孤児たちでした。『たとえ日本人でも、私たちのオモニです』と体を張って守ってくれたそうです」

        □ □

     千鶴子さんは李蘭影の4つ年上である。民族も生活環境も異なる2人だが、共通点があった。

     夫を朝鮮戦争の際に失ったことだ。

     李蘭影の夫、金海松氏は戦争が勃発した1950(昭和25)年に行方不明となった。ソウルが陥落した際、北朝鮮軍に連行されたとみられている。

     尹致浩氏も51(昭和26)年、共生園の食料を援助してもらうため、光州の全羅南道庁に出かけたまま行方が分からなくなってしまった。

     李蘭影はその後、子供たちが暮らす米国に渡り、音楽活動に従事した時期もあった。しかし「木浦の涙」を上回るヒット曲に恵まれず、65(昭和40)年、不遇のうちにソウルで亡くなった。48歳の若さだった。アルコール浸りの晩年だったとも伝えられる。葬儀は韓国演芸協会葬で執り行われた。

     一方の田内千鶴子さんは夫がいつ帰ってきてもいいように、共生園の運営に文字通り粉骨砕身した。朝鮮戦争直後の50年代が孤児ら500人以上を抱え、最も苦しい時期だったようだ。

        □ □

     共生園は今も変わらず、儒達山のふもとにある。2001(平成13)年から木浦共生園園長を務める鄭愛羅(チョン・エラ)さん(54)に、大食堂として以前使われていた事務棟で会った。

     1970年代、300人を超える子供たちが一度に食事ができるようにと、日本の福祉団体の支援で建てられたのだという。

     鄭園長は尹清美さんの娘で、千鶴子さんの孫に当たる。孤児たちと遊びながら園内で育った。

     「祖母は自分の孫たちのしつけに厳しかったですよ。その半面、親のいない子供たちには本当にやさしく接していましたね」

     孤児の1人も千鶴子さんをこう振り返っている。

     「寒い冬には、凍えた小さい手に息を吹きかけながら、『ちゃんと勉強するんだよ』と、まだつたない韓国語で話してくれました」

     子供が病気などで亡くなると、「その小さな体を抱いて寝てあげたそうです」(鄭園長)。

     日本の元外交官で釜山総領事などを務めた町田貢氏(81)=ソウル在住=も、65年の日韓国交正常化後、千鶴子さんに会ったときのことを印象深く覚えていた。

     「とにかく疲れていらっしゃいましたね。支援先を探すことも大切だが、やることはそれだけではなかった。孤児たちは学校を卒業すると、共生園から出ていかなければならない。それが決まりです。『みんなが就職できるわけではないのに、共生園から送り出さないといけない。それが最も辛い』とおっしゃっていました」

     鄭園長が6歳のとき、千鶴子さんは100人余りの孤児たちに見守られながら息を引き取った。疲労が原因とされる。56歳だった。

        □ □

     『オモニ、幼い私たちを残してどこに行かれるのですか-。孤児たちの張り裂けるような声に、港町・木浦が泣いた』
    (続く)

    3 名前:ねこ名無し ★@\(^o^)/:2016/10/01(土) 18:55:07.04 ID:CAP_USER.net

    (続き)

     1968(昭和43)年11月2日、千鶴子さんの葬儀が木浦市初の市民葬として執り行われた。翌日の朝鮮日報は大きく取り上げ、こう報じた。

     弔電は百通を超え、駅前広場で催された葬儀には「当時の木浦の人口約10万人のうち、3万人もの市民が参列したそうです」(鄭園長)。

     千鶴子さんが死の直前につぶやいた言葉がある。

     病床で長男の尹基氏に日本語でこう言ったそうだ。

     「梅干しが食べたい…」

     韓国人の妻として、韓国語で話をしながら、韓国の料理を食べ、韓国の子供たちを育てた千鶴子さん。最期の想いは胸の中にしまい込んでいた望郷の念だった。

     この言葉は、基氏のその後の人生に大きな影響を与えることになる。

     千鶴子さんが結婚前を含む32年間で育てた子供の数は2995人。「日本人が韓国で行った最大の善行だろう」(町田氏)とも評されている。

     韓国政府は、千鶴子さんが亡くなる5年前の63(昭和38)年、日本との国交正常化前にもかかわらず、日本人の千鶴子さんに文化勲章を贈り、その功績に報いた。在韓外国人女性への授与は初めてのことだった。

        □ □

     李蘭影の墓はもともと、ソウル北方、坡州(パジュ)市の芸術家関係の墓園にあった。鄭泰官氏ら市民団体の活動で、没後41年の2006(平成18)年に遺灰が故郷・木浦に移され、サルスベリの木の下に埋められた。

     場所は、「木浦の涙」の歌詞にも出てくる三鶴島(サムハクト)。今では、埋め立てられて陸続きだ。一帯は「木浦の娘 歌手李蘭影公園」として整備され、市民の憩いの場となっている。

     李蘭影の歌手としての活動期間は32年で、くしくも田内千鶴子さんと同じ歳月である。その間に222の歌を世に送り出した。

     鄭泰官氏は語る。

     「解放前の韓国の知識人はほとんど、親日派と呼ばれた。李蘭影だけでなく、彼女の兄弟もそう非難された。ただ、彼女の歌で木浦が広く知られるようになり、国民の心が癒やされたのも事実だ。親日的な歌を歌ったということは認めた上で、そこに立ち止まらずに、未来のコンテンツとして李蘭影や木浦の涙を生かすべきだ」

     鄭泰官氏たちは「『木浦の涙』から希望を」というスローガンを掲げ、討論会やコンサートなど、生誕百周年の記念事業を行っている。

        □ □

     李蘭影公園の高台からは、市内の「金大中(キム・デジュン)ノーベル平和賞記念館」が見えた。

     日本統治時代の“アレルギー”などから、韓国内で禁止されてきた「日本文化」の開放政策を推進したのが、木浦近くの離島で生まれ、木浦を地盤とした元大統領の金大中氏(1924~2009年)だった。

     金大中氏は大統領時代の1998(平成10)年、当時の小渕恵三首相と「日韓共同宣言-21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ」に署名した。

     それによると、小渕首相は「わが国が過去の一時期、韓国国民に対し植民地支配により多大な損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受けとめ、これに対し、痛切な反省と心からのおわび」を表明した。

     金大中氏はこれを評価し、「両国が過去の不幸な歴史を乗り越えて、和解と善隣友好協力に基づいた未来志向的な関係を発展させるため、互いに努力することが時代の要請だ」と述べている。

     それから18年が経過した今年4月、木浦市内の近代歴史館(旧日本領事館)前に慰安婦像が設置された。同歴史館は、1897(明治30)年の木浦開港直後に設けられた日本領事館の建物として、1900(明治33)年に建設されたものだ。

     現在、こうした慰安婦像はソウルの日本大使館前をはじめ、韓国国内約40カ所にある。

     このうち、ソウルのほか、群山(グンサン)や全州(チョンジュ)などで慰安婦像を見かけたことがあるが、木浦の街中で、雨に打たれて濡(ぬ)れそぼつ慰安婦像を目にしたとき、違和感を覚えずにはいられなかった。

     日本人の「オモニ」が生涯を懸けて取り組んだ児童福祉事業、「木浦の涙」を現代のコンテンツとして生かそうと活動する市民団体、「日韓共同宣言-21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ」の未来志向の精神-。これまで木浦で見聞してきた事象とは異質な何かを感じたからにほかならない。

        □ □

    (続く)

    5 名前:ねこ名無し ★@\(^o^)/:2016/10/01(土) 18:55:23.81 ID:CAP_USER.net

    (続き)

     慰安婦像設置に至った経緯などについて、「木浦平和の少女像建立推進委員会」の委員長を務めた全成烈(チョン・ソンリョル)木浦科学大元教授(64)に話を聞いた。

     -像を設置した経緯は

     「昨年2月、木浦市民団体協議会の新年会で提案された。この協議会は6つの市民団体で構成され、私は私学不正清算・全南市民行動の代表を務めている。私の専門は自治行政だ」

     「昨年4月に準備委員会が発足、私が委員長に推挙された。昨年8月に現在の推進委員会が結成され、募金活動を開始し、8カ月後の今年4月に少女像が設置された。木浦で独立万歳運動(1919年)が起きた記念日である4月8日に除幕式を行った」

     -像設置の費用は

     「推進委員会の収入総額は約7000万ウォン(約642万円)で、そのうちの約1800万ウォン(約165万円)が木浦市からの支援金、残りが団体や個人からの募金だ。少女像の製作費は約3300万ウォン(約303万円)、教育・広報費が約1350万ウォン(約124万円)、このほか運営費などがかかる。少女像が設置された場所は木浦市と賃貸契約を結んだ」

     -像設置の目的は

     「少女像の横の碑文に記されているが、日本政府の公式的、かつ、心からの謝罪を求め、ハルモニ(おばあさん=慰安婦被害者)たちの名誉回復を図ることにある」

     「少女像をつくることになり、私は群山、光州、全州、南海(ナメ)、巨済(コジェ)、統営(トンヨン)の6カ所に設置されている少女像を視察してきた。像はさまざまで、光州の少女像は学生が中心になって募金活動を行い、少ない予算で製作された。だから今年7月、強風で倒れて破損するような問題が起きた。全州はソウルの日本大使館前の少女像と同じ彫刻家がつくったものだった。会議の結果、私たちも日本大使館前と同じ像をつくろうということになり、同じ彫刻家に製作を依頼した」

     「私たちは、市民・学生への教育・広報活動を重視した。ほかの地域と異なり教育・広報チームを設けて、市内の小中高校を訪問し(慰安婦問題の)講演や寸劇を行った」

     -日本人の田内千鶴子さんがたくさんの孤児を育て、福祉の向上に貢献した木浦の地に、日本を批判する慰安婦像ができて違和感を覚えたが

     「尹鶴子(ユン・ハクチャ=田内千鶴子さんの韓国名)さんは『人権』の代名詞だ。たいへん尊敬している。だが、慰安婦問題とは別の話だ」

     「少女像設置は反日とは関係ない。過去の問題を清算して未来の世代につなげようということだ。韓日関係の新しい未来のために、過去の問題は整理しなければならない」

     「少女像を設置するのは、日本を責めるためだけではない。ハルモニたちを守ってあげられなかった自分たちへの反省であり、(慰安婦問題に)無関心だった韓国政府の責任を問うためでもある」

        □ □

     木浦共生園の現在の孤児数は約60人。1980年代からは障害者の子供たちの施設を別に設けるなど、共生園を含め6施設(計約360人)を木浦市内外で運営している。韓国の社会福祉法人として、予算の80%を国、道、市などからの支援でまかなっている。

     尹基氏は母の田内千鶴子さんが亡くなった後、共生園の園長を務め、現在は日本国内で在日コリアンの福祉向上のために尽力している。

     「母が亡くなる前に故郷のことを思い出したように、高齢の在日コリアンが韓国語で暮らし、韓国の料理を食べられるような施設をつくりたい」

     こうした思いから、日本人と在日コリアンの高齢者共生施設「故郷の家」を89(平成元)年以降、堺市、大阪市、神戸市、京都市に設立してきた。

     そして、10月17日には東京都江東区に5軒目の「故郷の家」がオープンする。

     「いよいよ東京に“共生園”ができる。そんな気持ちです」

     電話の向こうの基氏の声は弾んでいた。日本の深刻な高齢化社会の中で、理想の実現に向かって一歩一歩進んでいく決意だ。

    (おわり)


    引用元:http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1475315651
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